11月8日(日)に歴史探訪を行いました。前日7日(土)に開催を予定しておりましたが、あいにく天候が思わしくなく、急遽日程を変更いたしました。ご予定が合わず参加できなかった皆様には心よりお詫び申し上げます。
当日は爽やかな秋晴れのもと、当協会理事長 猪熊兼勝先生の解説を聞きながら奈良県桜井にある古代日本と朝鮮半島の交流の証が眠る遺跡を巡ってまいりました。

舒明天皇押阪陵

622年、斑鳩の泡波宮で厩戸皇子が臨終の間際、見舞いの太子の長子・山背大兄皇子と敏達天皇の孫・田村皇子の両方に、将来を期待できる遺言をします。田村皇子は異母妹の宝皇女を娶り、中大兄皇子(天智天皇)・間人皇女(孝徳皇后)・大海人皇子(天武天皇)を生みます。蘇我氏は、田村皇子を舒明天皇にし、天皇は百済大寺を建立しますが、641年、百済宮で崩御。宮殿の北で百済の大殯を行ない、蘇我氏は御しやすい皇后を皇極天皇に。翌年、滑谷岡に陵墓を造り埋葬しました。皇極天皇は、夫の陵墓を桜井押坂に改葬しましたが、それは天皇だけが造れる八角の形をしていました。2段積の墳丘南の正面を平らにしたため九角になりました。奥に舒明天皇、前に母の糟手姫皇女を埋葬したと思われます。

石位寺

いずれの宗派にも属さない無住寺で、「伝 薬師三尊石仏」で知られています。今は収蔵庫に安置されていますが、30年程前まではお堂に祀られていました。中尊は椅子に腰掛けた椅像で、頭の後ろに2重光背を負い、両脇侍は立像です。唇と衣紋に朱痕を残し、細部まで緻密に彫刻された白鳳時代を代表する完璧な作品です。

石位寺の皆様のご厚意により拝観の後、こちらでお昼休憩。大空の下で食べるお弁当は格別です!

赤坂天王山古墳

石舞台クラスの巨石を積み上げた横穴式石室で、暗黒の世界を示す玄室に、大きな家形石棺があります。蘇我馬子は東漢駒に崇峻天皇を殺害させ、即日、天皇を倉梯陵に葬ります。
生前から造った寿陵でした。近世、この天王山古墳は崇峻陵の候補に挙がりますが、ここから1km程南の倉梯に治定されました。

人ひとりがくぐって通るのがやっとの洞穴に入っていくと石棺が見学できます。いざ黄泉の国体験!

舞谷古墳

赤坂天王山古墳から西へ、外鎌山には百済系渡来人の墓とする磚積古墳が数基あります。
そのひとつである舞谷古墳は、漆喰を塗った奥壁しか残っていませんが、このような石積で母国の煉瓦積の墓を偲んだ渡来人たちが望郷の思いを込めた姿が見えます。

メスリ山古墳

4世紀後半頃、この地を支配していた有力者の墓。東を後円部とした全長210mの大前方後円墳です。後円部頂上には正方形に区画した円筒列があり、四隅には直径1m、高さ2m程の円筒埴輪がありました。
前方部のある西寄りに、古墳の主軸に直角に巨石列があります。これは竪穴式石室の蓋石で、底には粘土敷きの床に高山槇を縦割りし、中を抉り柩としました。
東横に大ビーチパラソル状の衣笠埴輪、その下に玉石組の竪穴式が並行していました。
注目すべきは、石室中央にあった鉄製の弓と5本の矢。弦も鉄でした。鉄絃の弓はギリシャ神話で怪力が引くものであり、この古墳の被葬者が腕力ある支配者であることを誇示しています。

上之宮遺跡

メスリ山古墳付近の地名は上之宮です。大阪の河内飛鳥にある有名な野球校と同様、聖徳太子の青年時代を過ごした宮殿名です。
住宅地の真中に小公園となっている玉石敷の小池があります。この東側に立派な宮殿遺跡がありました。この北方角に聖徳太子の父・用明天皇の宮殿伝承地があり、地名から太子が斑鳩宮へ移る前の上之宮とされていますが、太子の4人の妃のなかの誰かの使った化粧道具でしょうか、この池から櫛が出土しています。

艸墓(くさはか)古墳

住宅地を進むと、突然、横穴式石室の入口に出くわします。玄室には大きな唐櫃のような家形石棺を囲み、巨石が覆っています。前には礼拝石があります。臨場感のある7世紀中頃の古墳です。この南西には阿部文殊院があります。

ご参加いただいた皆様、誠にありがとうございました。
当局といたしましては大変稀有な秋の歴史探訪の旅、楽しんでいただけましたでしょうか?
次回も皆様のご参加を心よりお待ちしております。