聖徳太子の服装は一万円札の姿と思われていますが、これは太子没後百年以上後に描かれたもので、太子の時代には、あのような冠、笏(しやく、手に持った長い板)、メタルで飾ったバンドがありませんでした。
そこで、「四天王寺ワッソ」では、その様な服装も歴史学者の考証のもと史実に忠実に再現しました。
「十三年閏七月己末期、皇太子、諸王、諸臣に命じて褶(ひらおび スカートのようなもの)を着せし日む。」
(日本書紀 推古天皇十三年の条)

「亦衣装は錦・紫・縫・織・及び五色の綾羅(あやうすはた)を用ふ(一に云く、服の色は皆冠の色を 用ふ) 」
(日本書紀 推古天皇十六年の条)

1.冠(かんむり)
2.冠の緑(かんむりのもとはり)
3.袍(ほう)
4.袍の胸紐(ほうのむなひも)
5.袍の緑(ほうのもとはり)
6.下襲(したがさね){ 内衣(ないい)}
7.長紐(ながひも)
8.袍の欄(ほうのらん)
9.袍の欄の緑(ほうのらんのもとはり)
10.褶(ひらおび)
11.表袴(うえはかま)
12.表袴の緑(うえはかまのもとはり)
13.靴(くつ)

アジア各国は盛んな交流を行い、日本へも多数の人々が訪れました。
中でも高句麗の僧慧慈は聖徳太子の仏教の師であるでなく、政治・外交政策の助言者として海外の情報を伝え、聖徳太子の諸政策にも大きな影響を及ぼしたと云われています。
「夏四月十日、厩戸豊聡耳皇子(うまやとのとはとみみのみこ)を立てて、皇太子とされ、国政をすべてまかされた。また仏法を高句麗の僧慧慈に習われ儒教の教典を(百済)の覚架博士に学ばれた。そしてことごとくそれをお極めになった。」
(日本書紀推古天皇元年の条)

「皇太子は慧慈を師とされた。この年にはまた、百済の僧慧聡(えそう)もいらしゃった。この二人の僧は、仏の教を広め、いずれも三宝の棟梁となった。」
(日本書紀推古天皇三年の条)

*三宝の棟梁・仏教界の中心人物の意
「高句麗王が僧曇微・法定らをおくった。曇微は五経に通じており、絵具・紙・墨などを作り、水力を用いる臼をも造った。水臼をつくったのはこれが最初であろう。」
(日本書紀推古天皇十八年の条)
*五経・儒教の聖典「易経」「書経」「詩経」「札記」「春秋」の総称